
【2026年版】仕事始め前の日曜日、車に乗ると少しだけ現実に戻れる気がした話|1/5が始まる前に
1月最初の日曜日って、なんだか変な日だ。
正月の続きみたいで、もう続きじゃない。
休みの終わりみたいで、まだ終わってない。
なのに、胸の奥だけは先に「明日」を見てしまう。
カレンダーで言えば、ただの日曜日。
でも体感は、日曜日というより“境目”に近い。
正月と平日の間に置かれた、薄い一枚の紙みたいな日。
僕はこの日が、あんまり得意じゃない。
得意じゃないというより、上手く過ごせない。
どう過ごしたって、どこか落ち着かない。
ぼんやりしていると、知らないうちに「明日のこと」を考えてしまうから。
1/5が仕事始めになる人は多いと思う。
もちろん職種によって違うし、休みの長さも人それぞれだけど、
少なくとも僕のまわりでは、1/5に日常が戻ってくる人が多い。
その前日である1/4の空気には、独特の重さがある。
重い、というより“薄い”のかもしれない。
正月の賑やかさがすっと引いて、代わりに現実がどっと来る。
まだ来てないのに、来ることだけは確定している。
その確定が、じわじわと近づいてくる。
正月でも平日でもない、あの夕方
1/4の夕方って、静かだ。
街も静かだし、家の中も静かになる。
不思議なのは、何も変わってないのに静かになるところだ。
テレビはついてるし、家族の会話もあるし、部屋の温度もいつも通り。
それでも、空気だけが変わる。
正月番組も、なんとなく“総集編”みたいな雰囲気になって、
CMも「明日から仕事」みたいな表情をし始める。
SNSを開けば、帰省の投稿が減って、代わりに「明日からだ…」みたいな言葉が増える。
そういうものが少しずつ混ざって、家の中にも“日常が戻る音”が入ってくる。
僕はその音が苦手で、でも嫌いではない。
嫌いじゃない、というのが厄介で、だからこそ逃げ方が難しい。
完全に嫌いなら、全部シャットアウトしてしまえばいい。
でも実際は、明日が来ること自体が嫌なんじゃなくて、
「いきなり明日に切り替わる感じ」が苦手なんだと思う。
0か100か、みたいな切り替え。
休みの自分から、仕事の自分へ。
正月の自分から、平日の自分へ。
そのスイッチを、一瞬で入れ替えるようなやり方が、どうも合わない。
たぶん僕は、助走が欲しい。
助走っていうと格好いいけど、要するに“間”が欲しい。
いきなり戻らないための、ワンクッション。
そのワンクッションが、車の中にあることが多い。
家にいるほど、明日が大きくなる
1/4の夕方、家にいると、明日がどんどん大きくなる。
何をしてても大きくなる。
テレビを見てても、スマホを見てても、何もせず座ってても、明日は膨らむ。
「明日は早起きしないとな」とか、
「メール溜まってるだろうな」とか、
「休みボケしてないかな」とか。
そんなことを考えるのは普通だし、みんな同じだと思う。
でも問題は、それが“考え”じゃなくて“圧”になってくる瞬間だ。
考えてるだけのときは、まだいい。
圧になった瞬間から、休みの残り時間が削られていく。
「まだ休みなのに、もう休んでない」みたいな、あの感じ。
僕はあれが、いちばん嫌だ。
休みの最後は、ちゃんと休みたい。
最後の一滴まで、というと大げさだけど、
少なくとも“休みの顔”のまま終えたい。
明日のことを考えたせいで、今日が台無しになるのは、なんか違う。
だから車に乗る。
この日の車は、どこか避難所みたいな顔をしている。
避難所って言うと、疲れてる人みたいに聞こえるけど、疲れてるんだと思う。
疲れてるし、でも元気でもある。
その中間にいるのが、1/4なんだと思う。
エンジンをかけると、気持ちが「途中」になる
車のいいところは、気持ちが「途中」になれるところだ。
家にいると、どうしても“休み”か“明日”かの二択になりやすい。
でも車に乗ると、その間が生まれる。
エンジンをかけた瞬間、完全に休みじゃなくなる。
ハンドルを握ると、体が少しだけ緊張する。
周りを見て、アクセルを踏んで、ブレーキを踏む。
それはもう、日常の動きに近い。
でも同時に、完全に平日でもない。
どこに行くわけでもないし、仕事のことを片付けるわけでもない。
ただ走っているだけ。
だから、日常の準備運動みたいな状態になれる。
この「途中」の感じが、僕にはちょうどいい。
休みの自分を裏切らずに、平日の自分に近づける。
切り替えるんじゃなくて、寄せていく。
それができる場所が、車の中だと思っている。
日曜日の夜の道は、少しだけ正直だ
1/4の夜の道は、やっぱりどこか違う。
人も少ないし、車も少ない。
コンビニの灯りがいつもより明るく見える。
信号待ちの赤が、静かに長い。
こういう道を走っていると、
自分の気持ちが“整理されていないまま”出てくる。
「不安」とか「焦り」とか、きれいな言葉にする前の状態。
言葉にできないから、息苦しいやつ。
僕はそれを、無理に言語化しない。
言語化って、便利だけど、すぐに結論にしたがる。
「こうだから不安なんだ」とか、
「こうすれば解決する」とか。
でも1/4の夜に必要なのは、解決じゃない気がする。
必要なのは、ただ「そういう夜なんだ」と認めること。
不安になる夜がある。
切り替えが怖い夜がある。
それを、悪いことにしない。
そういう夜を通り抜けるための、静かな時間があるだけ。
「戻る」って、敗北じゃない
休みが終わるとき、どこかで「戻るのが嫌だ」と思ってしまう。
それは仕方ない。
でもその気持ちの中に、ちょっとだけ厄介な感覚が混ざることがある。
戻る=負け、みたいな感覚。
自由な時間が終わる。
好きなように過ごせた日々が終わる。
だから戻るのは、つまらない現実への降格、みたいな。
そういう感じ。
僕は、そういうふうに思いたくない。
別に仕事が好きとか嫌いとか、そういう話でもなくて、
「戻ること」を敗北にしたくない。
日常に戻るのは、普通のことだ。
呼吸をするみたいに、戻っていくものだ。
それをわざわざドラマにしなくてもいい。
勝ち負けの話にしなくてもいい。
車に乗っていると、その感覚が少し取り戻せる。
走る。止まる。曲がる。進む。
当たり前の操作を繰り返しているうちに、
「戻る」ことが、当たり前の動きになっていく。
敗北でも、勝利でもない。
ただの、移動。
ただの、日常。
仕事始めの前日は、頑張らなくていい
1/5が仕事始めだと、1/4は“最後の日”になる。
最後の日って、変に頑張りがちだ。
「最後だから遊び尽くさないと」とか、
「最後だから有意義に過ごさないと」とか。
でも、その頑張りがいちばん疲れる。
最後の日は、最後の日でいい。
特別なことをしなくてもいい。
むしろ、特別なことをしようとすると、
最後の最後に疲れて、明日がさらにしんどくなる。
僕は、1/4は“整える日”にしたい。
整えるって言っても、完璧に準備することじゃない。
心を整えるとか、生活を整えるとか、そういう立派なやつじゃない。
ただ、明日が来ても大丈夫な状態に寄せる、くらいの整え方。
車に乗るのは、その整え方の一つだ。
走って、戻ってきて、エンジンを切る。
たったそれだけで、気持ちがほんの少し落ち着くことがある。
落ち着かないままでもいいけど、落ち着くなら儲けものだ。
車内は「決意」を求めてこない
僕が車を好きな理由の一つは、
車内が「決意」を求めてこないところだ。
新年になると、決意があふれる。
今年はこうする、こうなりたい、こう変わる。
それ自体はいい。
でも1/4の夜に、決意は重たい。
まだ心が追いついていないのに、決意だけ先に立てると、置いていかれる。
車内は、決意を求めない。
ただ、今の自分をそのまま乗せてくれる。
元気な自分も、だるい自分も、少し不安な自分も。
「どれでもいいよ」って顔をしている。
僕は、その“受け入れてくれる感じ”に救われる。
誰かに相談するほどでもない。
でも一人で抱えるには、少しだけ重い。
そういう夜に、車はちょうどいい。
ほんの少しの「助走」でいい
1/4の夜、僕は長い距離を走らない。
遠くまで行かない。
目的地も決めない。
近所を少し回って、戻ってくる。
それでいい。
助走って、そんなに長くなくていい。
ほんの少しでいい。
「明日が来る前に、一回だけ車に乗った」
その事実が、僕の中で小さな安心になる。
たとえば、靴を揃えて玄関に置くみたいな。
カバンを準備するみたいな。
そういう小さな準備と同じカテゴリに、僕の“夜のドライブ”がある。
ただし、目的は準備じゃない。
準備のために走ると、走る時間が作業になる。
僕が欲しいのは作業じゃなくて、余白だ。
余白の中で、明日と今日の距離を、少しだけ縮めたい。
帰ってきた家が、さっきより落ち着いている
少し走って家に戻ると、
不思議と家の空気がさっきより落ち着いていることがある。
部屋の明かりは同じ。
時計の針も進んだだけ。
何も変わっていないはずなのに、落ち着いている。
たぶん、変わったのは自分の側だ。
走って、戻ってきただけで、
気持ちが少しだけ“整った方”に寄ったんだと思う。
明日が消えたわけじゃない。
不安がゼロになったわけでもない。
でも、不安が“圧”になる前に、いったん外へ出られた。
そのことが大きい。
僕はこの感覚を、毎年繰り返している。
そして毎年、思う。
「この程度でいいんだな」と。
1/5は、いきなり全力じゃなくていい
仕事始めの日って、どうしても全力を求められる気がする。
実際は誰もそんなこと言っていないのに、
自分だけが勝手に“初日からちゃんと”を背負ってしまう。
でも、いきなり全力じゃなくていい。
いきなり完璧じゃなくていい。
初日は、初日として、体を起こす日でいい。
脳を戻す日でいい。
「戻ってきました」って挨拶する日でいい。
1/4の夜に車に乗るのは、
そのための言い訳でもある。
僕は自分に言い聞かせたい。
明日は100でなくていい。
60でも、70でも、十分だ。
それでもちゃんと“始まる”から。
日曜日の夜に、車があるということ
1/4の夜。
正月でも平日でもないあの夜に、車があるということ。
それは僕にとって、ただの移動手段以上の意味を持つ。
逃げ場所、という言い方もできる。
でも、逃げ場所って言うと、弱い人みたいで嫌だ。
僕は弱いのかもしれないけど、
弱いからこそ“うまく生きる手段”を持っておきたい。
うまく生きる手段って、派手じゃなくていい。
人生が変わる必要もない。
ただ、明日が来る前に一回深呼吸できる場所があればいい。
車内は、深呼吸できる。
外の空気と隔てられていて、でも外と繋がっている。
狭いのに、余白がある。
そういう場所は、意外と少ない。
正月が終わる音がする
家に戻って、鍵を閉める。
玄関の冷えた空気を抜けて、部屋の暖かさに入る。
そのとき、正月が終わる音がする。
大きな音じゃない。
カーテンの揺れとか、時計の秒針とか、
そういう小さな音が、急に現実っぽく聞こえる。
それが、正月が終わる音なのかもしれない。
それでも、僕は思う。
悪くないな、と。
戻ることは、敗北じゃない。
戻ることは、生活だ。
生活が戻ってくるなら、また走れる。
明日、1/5。
仕事始め。
たぶん少し憂うつで、たぶん少し面倒で、
でも、ちゃんと始まる。
いきなり切り替えなくていい。
いきなり前向きにならなくていい。
今日の夜に少しだけ車に乗れたなら、
それだけで、十分助走になっている。
僕はそういうふうに、毎年思う。
そしてたぶん、来年の1/4も、同じことを思っている。
車のキーを置く。
明日のために何かを完璧に準備するんじゃなく、
ただ、今日をちゃんと終わらせる。
1/4は、それでいい。
正月でも平日でもない日曜日は、
“途中”のまま終えていい日だと思っている。






